55年ぶりに訪ねた町の記憶

小学校3年生の時まで、東京・葛飾区の立石という町に住んでいました。
京成線が走っているエリアの一角に位置する、下町地帯。
荒川や中川と呼ばれる河川に挟まれた「海抜0メートル地帯」で、文字通りの下町=標高の低い町でした。

下町という言葉には、「庶民的で気取らない気質を持った住民らの居住区」という定義もあるようですが、立石は、地面そのものが、ほんとうに満潮時の平均海水面よりも低いところにある町でした。

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住んでいたのは、川の堤防のすぐ内側に経つ公営住宅。いわゆる団地。
団地のすぐ隣にある堤防の向こうの川の水面が、団地の立地面より高いところにありました。
万一、堤防が切れたら、この団地はひどい有り様になっていたはずです。

(私がその家に住んでいた小学校3年生まで、つまり、私が生まれてから約8年間は、幸いに川の水が堤防を超えてくるような災害は起きなかったようです。 というか、そんなひどい目に遭った記憶がありません)

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地方から上京してきた父が、母と出会って所帯を持って、最初に住んだのがこの公営住宅。
間取りわずか2K
ほんとうに狭い家でした。
食事の時にはちゃぶ台を出して、夜寝るときにはそのちゃぶ台を畳んで、部屋一杯に布団を敷いて、寝る。
昭和の時代の、典型的な団地の生活スタイル。(と言うか、江戸時代の長屋での生活スタイル? )
決して裕福とはいえなかった父母にとって、その公営団地の住まいが、コスト的に手頃だったのでしょう。

でも、その狭い家で家族で暮らしていた記憶は、私にとって、どう思い出しても幸福感に満ちていたものでした。

父も母も鬼籍に入って、もう何年も十何年も経っている今、ふと、その時の “幸福感に満ちていた時の記憶”  が浮かび上がってきました。

 

家のテレビが白黒だったこと。

そのテレビが “カラーテレビ” に見えるように、三色に色づけされたセルロイド(?)の板をブラウン管に取り付けていたこと。

ウルトラQ』や『ウルトラマン』(もちろん、初代の)をそのテレビで見て、怪獣 という創造物に心を奪われたこと。

小学生低学年で漢字もまだろくに覚えていないうちから「」という字と、「」という(字画がとても多い)字は、特別に覚えてしまったこと。

カラダが小さかった当時としても、狭い狭い風呂場の、さらに狭い風呂桶の中で、父親といっしょに入浴していたこと。

……断片的ではありますが、妙に、そんなことを急に思い出すようになっています。

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この町の記憶が急浮上してきたのは、NHKの番組(『ドキュメント72時間』という番組)で、立石地区の再開発のことが取り上げられていたのを見たせいかもしれません。
この町の飲み屋街が、この2023年で閉鎖されることを取り上げた番組でした。

私がこの町を去った時(=親が、念願叶って川崎市の方に新築マンションを購入し、東京から神奈川へ引越をした時)が、前述の通り小学校3年の時でしたから、私自身は、立石の飲んべえ横丁のことなどは、まったく記憶がありません。

実を言えば、そのときに神奈川の山の手エリアへ引っ越してきて、小中高、そして大学へ進んで、卒業して、就職して、コピーライターとして数十年に渡って仕事を続けてきた、その数十年の間、幼少期を過ごした立石のことなど、ほとんど思い出すことはなかった………というのが正直なところです。

小学生だったから飲み屋の記憶がないだけでなく、そもそも、この町自体を思い出すことがなかったわけですね。

それなのに、なぜ、急に立石のことが気になりはじめたのか。
こればかりは、私自身にも、まったくわかりません。

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ともあれ、この2023年のお盆休みに、(他にでかけるアテもない、まったくノープランな夏休みに) “生まれ故郷、立石” に出かけてきました。
片道1時間強の 小旅行 です。
とても旅行とは呼べないような距離・場所ですが、私の魂が駆ける距離からすると、これは「旅行」です。

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幼少期の私が育った、間取り2Kの公営住宅は、実は、私の記憶の中の通りの場所と姿で、現存していました。
団地の中の、私が近所の友達らと遊んだ砂場も、55年前とまったく同じ姿で残っていました。

感動して不動産サイトで調べてみると、この団地は築66年。現在の賃料が、月額約3万円。管理費は「600円」(!)
60数年前に、私の父母がここを居に選んだのも、すごくわかる気がします。

様子が変わっていたのは、団地のすぐ横の川の堤防でしょうか。
昨今は、異常ともいわれる気候変動傾向で、「ゲリラ豪雨」とか「線状降水帯」とか、55年前には名前すらなかった現象も頻発するようになりましたが、海抜0メートル地帯で天候被害が出ないよう、護岸耐震補強工事で、堤防が とても強化 されていました。

ただ強化されたのみならず、川沿いが展望デッキ化されて、遊歩道としての体裁に整えられてもいます。
(今の文化では当たり前の光景ですが、昭和40年代の 川の姿 を覚えている私からすると、とてつもない近代化です)。

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かつての古巣を確認できただけでなく、当日は、立石駅前の、有名な飲み屋街(再開発で閉鎖になるのとは別の、まだまだ健在な飲み屋街)にある、超老舗超有名な、モツ焼き屋さんにも立ち寄ってきました。

昼14時から開店とあったので、その頃合いを見計らって訪問したのですが、すでに長蛇の列ができていて、まるまる1時間ならんで、やっと入店できたという、人気店です。

店の画像はあえて記載しませんが、建物の窓枠がアルミサッシではなく、「木の枠でガラスを固定した」という、まるで昭和をひもとくNHKドラマのセットのような佇まいであることに感動しました。
(ちなみに、前述の、団地の住まいも、当時は、窓枠が木製でした)

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注文したお品は、こんな感じです。

ナンコツ焼きのタレとテッポウ+アブラの生(=ボイル)

「ナンコツ焼きのタレ」と「テッポウ+アブラの生(=ボイル)」七味唐辛子がけ

シロ焼きの塩

「シロ焼きの塩」

タン生、赤いところ

「タン生、赤いところ」

どれも一皿250円。
焼酎(ほぼストレート)も、一杯250円

モツ物6皿と、焼酎4杯をおかわりして、ドップリ堪能したあげくのお勘定が「2500円」(!)

これは、私には、天国以外の何者でもありません。

以前、「昭和」が次々消えていくことを嘆いたコラムを記しましたが、少なくとも、この町と、このモツ焼き屋さん(を中心とする、私にとっての歓楽街)は、まだまだ、残ってくれています。

この “大切なモノ” が残っているうちに、この町にはぜひともまた再訪しなくては!と心を決めています。

ええ。ぜひともまた必ず来ますとも!