前回、新総理の就任と衆議院選挙、そして信頼される言葉についてのコラムを書きました。
10月の最後の日にその衆院選の投開票が行われ、その結果が明確になったタイミングで、またまた気になった言葉が出てきました。
それは
「力不足」
という言葉です。
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選挙なので、当選する人が居て、それ以上の人数の落選する人が居ます。
そこで落選した人のうち、10人中10人が(誰一人の例外もなく)口にしていたのがこれでした。
「私の力不足です」
与党の幹事長(つまり、大物中の大物)が自分の小選挙区で見事落選したときも、これを言っていました。
東京の選挙区で、党の中で自分の派閥をもっている会長の人が落選して比例復活もしなかったときのセリフも、これ。
野党の大物の人も、まさにこれを口にしていました。
これ以外のセリフを口にしていた人を、まったく見かけませんでした。
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これは便利な言葉です。
私自身、ちょっと大きな広告プレゼンプロジェクトで、多くのスタッフに動いていただいて、挙げ句、そのプレゼンを落としてしまった時に、スタッフのみなさんに間違いなくこの言葉を告げて、お詫びをしていたものです。
「力不足でした。申し訳ありません」
この言葉の偉大なところは、
「これを言ったら、それですべてにケリが着く」
「その先は特に何もしなくても他から咎められることがない」
…といった効能があるところだと思います。
人によっては、その先できちんと「自分の責任の取り方」を実行する人もあるでしょう。
が、基本的にこれは、その先のコミュニケーションを断ち切り、これを言った人にも、聞いた人にも「ああこれで事はおしまいね」と思考停止させる、キラーワードとして君臨するものだと思います。
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同じように、議論やコミュニケーションを断ち切る【思考停止ワード】はたくさんありました。
なぜか、国会議事堂の中などで、たくさん生まれていたような気がします。
私がそう感じる言葉の筆頭は、
『重く受け止めます』
『真摯に受け止めます』
……この言葉が出たら「ああ、この人は、その問題については特に深く考えないで、受け流して終わりにするつもりだな」と私は学習しました。
また、昔からある答弁文言として、
『遺憾に思います』
……起きた問題の本質が自分にある場合でも、これを言えば「私が思ったようにはならず、残念に思います(でも、私が悪いわけではありません)」と表明する気持ちで使っていますね。
辞書をみても、「遺憾」の語に「謝罪をする意味」はまったく無いことが明記されています。
国会答弁でこの言葉を口にする人がいかに多いことか…。
※ちなみにコドモの頃の私は、これは「イカンと思います」と事態のマズさを言い表す言葉だと勘違いしていました。
前の首相や、その前の首相(←とくにこちらの方)の時代には、次のような言葉も頻発されていました。
『丁寧に説明いたします』
……言葉遣いは丁寧に。でも内容はちっとも「説明=つまりギモンに思っている人が納得できるような回答」ではなく、「前にも申し上げた通りです」というセリフを繰り返すにすぎない回答をしてくる意味だと学習しました。
いまや、答弁などでこの言葉を口にする人は「信用に値しない」と思えるようにもなりました。
『(任命)責任は私にあります』
…これは「責任がある場所」を示すだけの言葉であり、これを言った人が「責任を取った」場面を見たことがありません。
これもその先のことについて思考停止させる言葉になってしまいました。
(どう責任をとるのか、と尋ねると「政治家としてより誠実に仕事を行うことで責任を果たす」という回答に決着するのもまさに思考停止回答例ですね)
その他、
『(問題には)当たらない』
…も、なぜそれが問題ではないのかを伝える努力を一切放棄した思考停止ワードですし、
『誤解を招いたのなら(謝罪する)』
…は、誤解しようもない問題を起こしておきながら「あなたたちが誤解をしたのなら、仕方ないから私が(謝るなどの)対応をとります」と、責任をむしろ国民側に押しつけたうえで、都合のいい対応で済ませてしまう言葉です。
お詫び・謝罪のことで言えば
『お詫びしたいと思います』
『謝罪したいと思います』
…は「思ったという事実」は伝えていますが、「お詫びします、ゴメンナサイ」「謝罪します、申し訳ありませんでした」と断言することは決してしない人たちが常用する言い回しです。
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思えば、前の政権(S)時や、その前の政権(A)時は、こうした不毛な思考停止ワードでずいぶんとイライラする感情を掻き立てられた時代でした。
この時代からの影響として、私は
『閣議決定』
…という言葉も「信用できないもの」として刷り込まれてしまいました。
国民や国会の意図に反することを閉じられた部屋の中だけで決めているものとして…。
本当はそうしたものではない、国会で国の政治の方針を迅速に決める仕組みのひとつのプロセスであるはずなのですが。
政権(S)時には、それを批判して「言葉の破壊」と評した意見もずいぶんと散見しました。(ここ とか ここ とか ここ とか)
死に至る病に罹った人を「自宅に放置」することを「自宅療養」と称したことなどが言葉破壊の例として挙げられていますね。
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すべては前回のコラムに記した「信頼できる言葉か、否か」ということに繋がっているものかと思います。
冒頭の「力不足」も、本来なら力不足で終わらせずに、「その先をどうするか」を考えて提示してこそ、「その先の信頼」を得るきっかけとなります。
私が内部スタッフとして関わっている企業先でも、
「ビジネスの失敗は、失敗ではない」
「失敗を失敗のままで終わらせることが、失敗である」
「失敗はすぐに報告し、且つ【再発防止策】をすぐに対策するのが大事」
…という教えを徹底させています。
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国を挙げての今回の選挙では、言葉の信頼性を失わせるふるまいをしてきた政党に、再度 チャンス を授ける結果が出ました。
今度の政権がその付託に答える“言葉”を発していくかどうか、は、これからの注目対象です。
政治のことばかりでなく、普段のビジネス上のことでも、
言葉の信頼性のこと そして
ふるまいの信頼性のこと を大事に考えていきたいと思っています。
それは、私の仕事そのものでもありますので。